
Yamaki shuu Virtual Memorial Museum
バーチャル
NEW
INDEX
鶴 光代先生インタビュー
インタビュアー:久持 修(やまき心理臨床オフィス代表)
撮影:2025年5月
鶴光代先生インタビュー 全文
久持「はい、じゃあお願いします。」 鶴「よろしくお願いします。」 久持「今日はお忙しいところ、ありがとうございました。」 鶴「こちらこそ。」 久持「もう早速ですけど八巻先生との出会いについて伺えますか?」 鶴「直接的な出会いは、2001年に八巻先生が秋田大学の教育文化学部の附属の教育実践総合センターの助教授として赴任された時に、初めてお会いしました。」 久持「その前からお会いになってたわけではないんですか?」 鶴「その前から、同じ催眠医学心理学会に籍を置いていたけれど、会うことはなかったですね。ただあの当時筑波大学にいらっしゃって、柴田クリニックでも八巻先生とご一緒だった笠井先生から、『優秀な若者がいるよ』っていうような話は聞いてたんですね。」 久持「笠井先生の話を私も八巻先生からよく聞いてて」 鶴「あ、そうでしょ?」 久持「八巻先生にとって兄貴分のような存在で」 鶴「そうそう、信頼してましたよね。なんかいろいろ相談もされてたみたいですね。」 久持「そうですか。」 鶴「でね、八巻先生より1年早く、2000年に秋田大学の教育文化学部の心理学コースって言われてるところに赴任したんですね。」 久持「当時、あれですよね。臨床心理士の資格が指定校の制度が始まったばかりで、秋田大学も指定校にするという流れで先生も。」 鶴「そうですそうです。それが一つだし、秋田大学全体として、その2〜3年前に秋田大学の組織の大改革があったのね。その中での一つのモットーが『新しい風を入れる』っていう。私が赴任した時も、教育文化学部って、国語教育とか数学教育とか、いろんなコースがいっぱいあって、それと同じ形で教育学コースと心理学コースがある。何十人て先生がいらっしゃる。そのほとんどが東北大出身だったんですね。」 久持「あ、そうなんですね。」 鶴「教育学部も心理学部も全員東北大。」 久持「でも先生は違う?」 鶴「だから、新しい風なの。」 久持「あ、なるほど」 鶴「秋田大学に来ないかって声がかかって、そういうことでぜひ新しい風を入れないといけないので、若い先生たちに相談したら、あなたが推薦されたのでって。八巻先生もそういう流れです。新しい風を入れるっていう。センター長の先生はものすごく喜んでらっしゃったですよ。さすが東京から来た、みたいな感じで。」 久持「今、名前を思い出しました。浦野先生。」 鶴「そうそう、浦野先生。その時、センター長されてたかどうかは…ちょっと覚えてないけど、4人の教員ポストのトップでしたね。浦野先生とは、馬が合ったんじゃないでしょうかね。」 久持「よく飲みに行ってたみたいですよ。」 鶴「ああ、それは良かったですね。秋田、日本酒おいしいですからね。」 久持「そうですか、そういう流れで。」 鶴「それと私の、(八巻先生が)来られてからの活動の印象的な話は、まずお人柄が良かったというのもありますけど、外に外にこう、大学の中に引きこもるのではなく、外に働きかけるという姿勢がありました。すぐにいろんなところとコンタクトを取って、もう翌年にはいくつかの、たとえば秋田の教育委員会の仕事とか教育センターの仕事とかね、外の仕事がどんどん八巻先生に入ってくるような感じでした。」 久持「まさにあれですね、新しい風が」 鶴「そうそう、そして人気者。やっぱりお話が上手だったからね講演とか研修会に出た人が、『今度また別の研修会にぜひ来てもらいたい』とか、そんなことが、秋田でよく活動されていましたね。」 久持「いろんなところにこう呼ばれて。でも秋田は広いですもんね。湯沢とかってなったら2時間くらいかけていかなきゃならない。」 鶴「それからあの県北、私もよく行ったけど、遠かった。」 久持「私も今その話聞いて思い出したんですけど、よくそういうところ、例えば湯沢だったら秋田の湯沢、2時間ぐらいかけて地域の学校とかで講演会をして、必ず美味しいものを食べて帰ってくるっていう。遠いのを苦ともしてなかったというか。」 鶴「それはまあ、やっぱり若いし、こう…なんていうかね、ソフトなアクティブさっていうかね。ガンガン行くっていうんじゃなくて、ソフトだけどアクティブっていうのが分かる。なんか、そういう印象でしたね。私。」 久持「じゃあ結構どんどん盛り上がって」 鶴「そうですよ。うん、盛り上がりましたね。それまではね、なんかみんな、とにかく心理学関係の専門家はちょっと静か、大人しかったんですよ。」 久持「あ、そうなんですね。」 鶴「だから私が赴任した時に、『教育委員会に挨拶に行きたいんだけど』って言ったら、みんなびっくりしたみたい。私はね、挨拶に行くのが当然だと思ってたんですけど、そしたらみんながびっくりして、そういう習わしがないみたいな『じゃあみんなで行きましょう』ってことになってね。その後から、いろんな調査研究の仕事とか頼まれるようになって、他の先生たちにも頼まれるようになりましたね。 久持「じゃあ、どんどん広がって?」 鶴「どんどん、ってほどではないかもしれないけど、それまでよりはね。私は秋田大学に7年間いましたけど、非常に居心地が良かったです。八巻先生も、まあ後半はいろいろあったかもしれないけど、前半はすごくニコニコ適応されてたんじゃないでしょうかね。あなたたちの頃はどうでした?」 久持「私が入ったのは2003年だったんです。2003年に八巻ゼミに入って、修士の1年で、2005年に修了した。」 鶴「そしたら、ちょうど(八巻先生が)いい時。秋田時代としては一番いい時ですね。」 久持「かもしれませんね。東京から私、八巻先生を追いかけていっていたので。」 鶴「そうらしいですね。」 久持「それも今思えば喜んでいただけてたのかな、という気がしますね。で、いろんなところに講演に行く時にも、学生だったんですけど、連れて行っていただいたりとか。まあとにかくアクティブで。で、終わったら必ず美味しいところに連れて行ってもらって、一緒に帰ってくると。それで必ず感想を聞かれるんですよ。『どうだった?』って。いいことを言うんですけど、『これが素晴らしかったです』『分かりやすかったです』『勉強になりました』って言うんですけど、それを10回ぐらい繰り返すと、なんか物足りなくなってきたみたいで。『もうちょっと、こうした方がいいとか、そういうのはないの?』って言われるようになって(笑)。なんか講演にかける思いが、よりよくしたいという思いが持っていらっしゃった。」 鶴「講演を聞いた人の印象だと『分かりやすかった』と言ってました。だからまた聴きたいとか、他でも話してもらいたいとか、もちろん内容が良かったのでしょうけどまあ内容が良くても難しかったら、っていうのもあるじゃないですか。だけどわかりやすかったっていうのは、私は感想として聞いたことありましたね。」 久持「確かに。講演している姿がすごく生き生きしてましたし、授業ももちろんそうなんですけど、生きがいの一つだったのかなという感じが。」 鶴「そういうのが伝わってくる授業とか講演だったですよね。」 久持「出会いはそんな感じだったんですね。」 鶴「そうそう。で、所属が微妙にちょっと違ってたので、あんまり一緒に大学で仕事をする機会はなかったけれど、それでも2002年だったと思いますけど、臨床心理士の養成コースを立ち上げて、認められて、臨床心理士の教育が正式に始まったんですね。 久持「私、(が入学したのが)その年だったと思います。」 鶴「2001年に始まったのかもしれませんが。ちょっとその辺曖昧で。その時に、私はその相談室の仕事を一緒にやっていて。大学院生の指導も非常に熱心にしてくださってた。大学院生にも人気があったですよね。」 久持「そうですね。それこそ授業もわかりやすかったですし。結構飲み会も好きだったのでよく飲みに行ってました。これ使えるかどうかわかんないですけど、ゼミの教員一人部屋(研究室)を持っていて、そこ(研究室内)でよく飲んでいましたね(笑)。」 鶴「あのね当時、秋田大学ではそれが公的にそれが禁止というおふれはなかったと思います。わからないけど。私はしたことないけど他では見聞きして。用事があって行ったら『一緒に一杯飲んで行ってください』って言われたことがある(笑)。でもある時からダメになったんですね。」 久持「だんだん厳しくなりましたからね。」 鶴「懐かしいですね、本当、八巻先生の明るさとか、しなやかさが思い出されます。」 久持「一緒に仕事されてた中で、思い出されるようなことは?」 鶴「あのね、彼はいろんなところで人間関係が大事だっておっしゃるよね。論文とかにもセラピーにおける人間関係について書かれてますが、そういう話をしている時に、私は(セラピーの中の関係を)人間関係とは捉えてない。人間関係とは捉えてなくて援助関係として捉えてるってそこでじゃあ、何がどう違うのかって彼と論争になったことがあるんですよ。」 久持「鶴先生と?」 鶴「そうそう、論争って言うとおかしいけど、彼は幅広くまあ捉えてるわけですよね。で、私はそのいわゆるセラピーの時だけの関係だから、それはもう自分から言えば援助関係っていうようなことをまあ言った。あの時、20〜30分ぐらい白熱したなという印象がありますね。 久持「そうですか(笑)結構熱く議論みたいな。」 鶴「今思うと、八巻先生は日常生活も含めて、本当人間関係が好きだったし大事にされていたんだと思いましたね。」 久持「“かかわりの心理臨床”っていう本が単著として出ているんで。」 鶴「結局、私はセラピーに限っての人間関係だと言っているんだけど、でもちょっとメモしてきたんです。アドラー心理学に関心を持たれたのはいつ頃からだったんですか?」 久持「元々はだいぶ前から(関心を)持たれてたのだと思いますが、やはり『嫌われる勇気』がブームになった頃に、ご自身では「便乗した」と言っておられましたけど。」 鶴「私はアドラーは勉強したことがないので、なんとも言えないけどアドラー心理学に関する概説とか読むとね、なんか八巻先生にぴったりだな、って思いますね。なんというかアドラー心理学って捉われないですよね。それと一人一人の自立性というか、一人一人の主体性とか、自由度の広さっていうのを、アドラー心理学は尊重しているっていう風に私が捉えた時に、八巻先生の生き方に非常にフィットしてるなと。」 久持「晩年と言ったらいいのか、本当にアドラーに一生懸命になられて。私が秋田大にいた頃はいわゆる家族療法とか、システムズアプローチとかに凝っていた時期で、私がその教え子だった。一気にアドラー心理学の方に行っちゃったので。」 鶴「合ったんじゃないの。自分の存在のあり方と合ったのかもしれないねえ。」 久持「熱が入ると、脇目も触らずにっていう。私なんかちょっと置いてかれたような感じ(笑)」 鶴「その背後にね、私が思うに、八巻先生はやっぱり権威を嫌ってたというのがあるかもしれないですよね。だからこの権威っぽい人のことをね、私にも「ああいうのは気に食わん」って言ってたから。そこらへんもね、やっぱりアドラー心理学と親和性があったんじゃないかなって思いますね。」 久持「まあ確かに。フロイトと決別したというところとか八巻先生もよくアドラーのことを講演でお話しするときに、アドラーは講演が上手だったらしいんですよ。で、講演が好きだし、あまり本を書かないで「語る」人だったと。そしてまあ、体型もややふくよかだったみたいな。まあ、ちょっとこう、自虐ネタですけど、共通項がたくさんあるみたいな(笑)ことをよく話されてましたね。でも結果的にはアドラーも亡くなった死因が、どこかに講演の旅行というか仕事で出張に行って、朝散歩をする習慣があったと聞いているんですけどまあ八巻先生も散歩が好きで、そこも共通してたんですけど、パタっと倒れて、突然亡くなったらしいんですけど。いや本当に亡くなり方もちょっと似てしまったという…。」 鶴「ちょっと因縁を感じてしまうね。 それからね、いわゆるある時からオープンダイアローグっていうのが流行りだしたじゃないですか。私の印象では、八巻先生、すぐそれに飛びついたっていう感じがあるんですけど、どうですか?そんな感じですよね。で、あれもね、八巻先生の性格というか、人柄というか、同じ土俵で学生とでも同じ土俵で対応するっていうか。そういう在り方が、やっぱりオープンダイアローグに惹かれたんじゃないかなと思うんですよね。」 久持「いや、すごいですね先生。どうやってそう読み取られたんですか?」 鶴「いや、オープンダイアローグはちょっとだけ勉強したことがあるので。で、あなたからこのインタビューを受けるって聞いて、それで、八巻先生がオープンダイアローグの、たしか正会員かなんかで所属してるっていう話を聞いて、とにかく早い段階で関心を持たれたっていうので。すぐ結びつきました。」 久持「そうですか。」 鶴「そんな感じしない?」 久持「いやもう、八巻先生自身がオープンダイアローグのいいところは、やっぱりそういう権威じゃなくて、お医者さんがトップに立って仕切っているんじゃなくて、医師すら同じ土俵だ。そこがいいんだっていうのはおっしゃっていたので。いや鶴先生は、そういうこと八巻先生から聞いたことがないはずなのでびっくり。」 鶴「いや、聞いたことはない。聞いたことはないけど、けれどすぐ結びつきました。」 久持「そうなんですね。いや、それはさすが。」 鶴「八巻先生がどんな人かっていうのを思った時に、すぐに結びつく。」 久持「確かにその先ほどの「権威を嫌ってた」っていうところと結びついていたのかなあ。アドラーもそうですよね。縦の関係じゃなくて、横の関係があってところだったので」 鶴「まあ今回あのね、こういうふうにお話をさせていただく機会があったので、八巻先生が何に関心を持ってらっしゃったのかなあと思って、主に八巻秀バーチャル記念館を見させてもらったんだけど。全体を概観すると、先ほど話していたような八巻先生のお人柄が浮かんできますね。だけど、だけど、頑固なところもあったよね(笑)」 久持「いやいや、もうそうですよね。ぜひそういうことも(笑)。」 鶴「なんの時だったか、まあ、その、人間関係とかセラピー関係の話の時も、「そうですね」とか言わないからね(笑)。彼は。それとやっぱりどっか頑固なところもあって、それもまあ魅力の一つだったかもしれないね。」 久持「頑固ということで先生が思い出されるエピソードっていうのは、先ほどの」 鶴「まあ、それは頑固とまでは言わないけどね。ただ…滅多にないんだけど、やっぱり自分が、社会的人間関係で腹が立ってたまらんっていう時に相談に来るんですよ。そういう時はもう本当にもう、「あいつはけしからん」とか、「こういうやり方はダメだ」とか、なだめても全然なだめ効果ゼロみたいな(笑)。」 久持「それは八巻先生、鶴先生に何を求めてたんでしょうね?」 鶴「まあ、訴えたかったんでしょうね。で、あの、私が介在して改善するっていうような求めではなくて、ただ「腹が立ってしょうがない!」って。鶴なら言ってもいいかと思ったのかもしれない。研究室結構離れてたんだけどね。」 久持「そうですね。3階と4階とか」 鶴「建物自体が違ってた。」 久持「そうですね。」 鶴「センターがね。」 鶴「でもまあ、いろいろ思い出しますね。でも全体にやっぱり人気があったね。」 久持「この前収録したのが田嶌先生だったんですけど、(笑)・・・・「嵐を呼ぶ男」っておっしゃってました」。 鶴「彼のことを?ああ、そう。」 久持「学会で議論をふっかけて、彼の周りで嵐が起きてたっていう(笑)。頑固っていう言葉とも結びつくかはわからないんですが」 鶴「ちょっと違うでしょうね。」 久持「議論をすごくされていた。」 鶴「なるほど、議論はお好きだったかもしれないね。」 久持「そういう時はやっぱり引かずに、どれだけ偉い先生でも臆さずに議論を挑んでましたね。」 鶴「そうなのよね。いや、でもそういうところはね、ソフトな感じとか、にこやかな感じとかね、ああいうのでカバーされてたよね、きっと。あったとしても。」 久持「ちょっと頑固だけだったら、私はついていかなかったと思いますよ。」 (笑) 鶴「まあでも中核はやっぱりお人柄が良かったってことでしょうね。懐かしいですね、本当に。本当懐かしい。」 久持「よくお酒とか飲まれたり?」 鶴「いや、それはほぼなかったですね。」 久持「そうなんですか。まあ先生お忙しかったですし。」 鶴「まあそれもあるけど、私自身にそういうパターンがなかったですね。その研究室で懇親会とかは必ず行ってたけど、誰かと一緒に飲みに行くっていうのはほぼなかったです。」 久持「そうなんですね。じゃあ、やっぱり大学の中での関わり?」 鶴「そうですね。大学の中での関わりです。それと、八巻先生を取り巻く外の世界から入ってくる情報。」 久持「ああ、評判ですね。」 鶴「そうそうそうそうそう。で、八巻先生が褒められると、私もうれしいじゃないですか。そういうのは記憶に残ってますね。地方にいると、東京から来た先生っていうのは、期待もされるのよね。その期待によく応えてたんじゃないでしょうかね。」 久持「そうですよね、秋田で、東京から来て、しかも大学の先生ってことで、八巻先生なりのプレッシャーとは感じていらっしゃらなかったように思いますけど、使命感みたいなものは感じました。」 鶴「私が感じているのは、秋田で何人かと食事に行った時、私はただの一人の女性として行ってるんだけど、同行者が「秋田大学の先生です」と紹介すると、ものすごく丁重に扱ってくれるんですよ。いい意味でね。福岡にいた時は、大学の先生って言っても、そこらへんにゴロゴロいるわけですよだけど、あの秋田で、やっぱりある意味少数派で、それなりにいい意味で興味関心引くことが多かったですよね。そういう意味でも居心地よかったんじゃないかなと。大事にしてくださるから。まあ、それ以外の居心地の悪さもあったかもしれませんけど、それはよく知らない。」 久持「八巻先生自身は、秋田の地は気に入っていたように見えました。」 鶴「それと…ちょっと思い出したんですけど、奥田民生っていう歌手の人がいるじゃないですか。ある日ふらっと来て、『奥田民生のコンサート行ってきたんですよ』って突然言われて、『えっ!?』って(笑)。『奥田民生ってどんな歌手だったかね〜』とか、頭の中で考えながら。ものすごく恥ずかしそうに、感激しながら話すのよ。」 久持「へえ、恥ずかしそうに?」 鶴「そうそうそう、その感激したことで、私に話すのが恥ずかしい、みたいな(笑)。それでも一人で話しに来たの。」 久持「わざわざ(笑)」 鶴「用事もあったかもしれないけど、用事はつけたしだったかもしれない。今度は学生と一緒に行ったこともあったみたいですね。」 久持「私は行ったことないんですけど(笑)。」 鶴「奥田民生が大好きだったみたいで。それから、私も気になって、テレビに出る時はちゃんと聴くようにしてました。」 久持「あの時だいぶ流行っていましたよね。テレビにもだいぶ出られていて。」 鶴「確かに素晴らしい歌手ですよね。ああこういう人が八巻先生好きだったんだなって、なんかピタッと合うみたいな感じはしました。」 久持「どういうところが?」 鶴「どういうところかね。なんか奥田民生ってちょっとオシャレじゃない。ちょっとセンスが良いというか。それと情緒性があるかな。そういうところじゃないかね。私はふたりピタッとあうなって。だから八巻先生が好きになるのは、私なりには「ああ、なるほど」と思ったですね。ガサツ性があるような歌手は嫌いだ思うの。」 久持「奥田民生は確かに好きだったみたいで、学生時代、カラオケにしょっちゅう行ってたんですけど、必ず歌っていました。また上手いんですよ。カラオケも。」 鶴「ああ、そう。聞いたことないです。」 久持「え、そうですか。一回も?先生はカラオケは?」 鶴「私はしない。」 久持「あ、そういうことなんですね。いや秋田にあれだけいらっしゃって八巻先生とカラオケ行ったことないっていうのは。」 鶴「だからそれは私は対象に入っていないのよ。きっと。そういうのの対象に。」 久持「必ずもう飲みに行ったらカラオケもセットで。まあ秋田自体がそれしか遊び方がなかったのかもしれませんけど。歌も上手で、声量があるというか。」 鶴「そうでしょうね。それはちょっと聞き惚れるよね。」 久持「伸びやかな声で、歌ってましたね。」 鶴「秋田時代、結構楽しんでるねえ。」 久持「だと思いますね。」 鶴「まあお仕事たくさんされてたけど。本当に精力的に仕事もしてらっしゃるよね。」 久持「日中は仕事をガッツリやって、夜はしっかり遊ぶ、という感じで。」 鶴「うん、そういうことよね。」 久持「パワーがあったっていう感じでしたね。」 鶴「あ、パワーあったね。」 久持「確かに。」 鶴「そのパワーが、明るいパワーだったねえ。パワーにもいろんな色合いがあるけど、八巻先生のは明るいパワーだったって、印象がありますね。」 久持「鶴先生は、八巻先生と一緒に何か仕事でご一緒されたことありますか?」 鶴「したことがあるのは、催眠研修会。秋田で何回かやったことがあります。その時に、八巻先生と、それから小川先生っていう方と3人で講師を務めました。催眠研修会を何度かしたことありますね。それなりに人が集まってくださって。私が退官した後も、八巻先生が 自分で何回か催眠研修会したんじゃないかね秋田で。そんな印象があります。」 久持「普段の大学教員としての仕事の仕方もあるのでしょうけどイベントなどをやる時に、八巻先生って結構熱が入るタイプでしたよね?」 鶴「どんなイベント?」 久持「それこそ学会とか。それは自分が主になるのと下につくのでは違うかもしれないけど。」 鶴「八巻先生が来たときにね、実は催眠医学心理学会の秋田大会をしたんですよ。彼が在籍している時、ただその時に八巻先生がどう立ち働いたかという記憶がないのよ。たぶん、八巻先生が赴任して1年目くらいだったと思うんです。それが思い出そうとすると思い出せない。」 久持「それは学会でしたよね?秋田の温泉…さとみ温泉でやった学会じゃないですか?」 鶴「そうそう、さとみ温泉でした 。」 久持「私が入学する前の年の話ですが、院生の先輩から「大変だった」って聞きました。あなたたちが在籍している間は学会が来なかったから、安心してねと言われて(笑)。」 鶴「でももう一つ、さとみ温泉でやったのは、臨床動作法の学会ではなかったですか?」 久持「じゃあ八巻先生はそんなに関わっていなかったと思います。」 鶴「その後にね、田沢湖のホテルを借り切って、催眠医学心理学会を開催したこともありました。その時(八巻先生が)いたはずなんだけど、記憶がないの。」 久持「そうですね。私もその時、田沢湖でやったという話は聞いたことがないですし、私も参加してないですね。じゃあ、いつ頃だったんでしょうね…。」 鶴「2000年に私が赴任して、2001年に八巻先生が赴任しているわけだから」 久持「だいたいのことは重なってるはずですよね。ちょっと後で資料を確かめてみます。」 鶴「その時、小川先生が中心だったから、八巻先生はちょっと影に隠れてたかもしれませんね。催眠医学心理学会をそのホテルでしたときには、八巻先生と直接関係ないんだけど、3日間やるんですけど、中日の午後イチにリラクセーション・プログラムっていうのを入れたんです。大会のプログラムを常任理事会にかけてリラクセーション・プログラムってなんですかと言うからね、「温泉行き」と「田沢湖めぐり」と二手に分かれてリラクセーションを体験するんです。そしたら年配の常任理事の人から、「不謹慎じゃないか」って意見がでたの。でも、結果的には通ったのよ。それでそれを実践したら。年配の先生方が 「温泉行き」に一番にバス乗り場に並んで。(笑)そんなことありましたね。」 久持「それはなかなか面白い話ですね。」 鶴「その時の案内役を八巻先生がしたような…うっすら記憶があるんですが、ちょっとそこは不正確なんですね。」 久持「そういう、ちょっと変わったことをするというか」 鶴「うんうん、亡くなった大先輩達がねえ、いっぱいそのコースに。」 久持「それはどういう思いで見てたのか。そうそう反対してたんじゃないんですかっていう。」 鶴「だけどまあ催眠医学心理学会だからね、ご自分も会員である。柴田出先生も来られて、笠井先生も来られてて、で、その時の懇親会の柴田先生の写真はあるのよ。だけど、八巻先生の写真はない。動き回ってたのかもしれませんね。」 久持「なんか思い出しましたけれども温泉に行って一緒に入るという企画は、他の学会でもやったんですよ。一緒にあの先生と風呂に入ったんだというのをその後よく聞いていたので、もしかしたらその企画に八巻先生がタッチしていたかもしれない。」 鶴「だって正式なプログラムに入っていたもの。」 久持「『リラクセーション』ってそっちなんですかという感じ(笑)。」 鶴「でも福岡時代にも似たようなことがあって、英彦山で研修会した時に、午後の3時間ぐらいとって、「米山」って書く「よねやま」って、そこに梨ひとつ持って、山を登って降りてくるというプログラムを入れたの。それもものすごく好評だったの。」 久持「梨一つってどういう意味が?」 鶴「水分です。当時はペットボトルとかなかったから。梨一つ持って上まで行って、食べて降りてくるって。ものすごく好評だったの。でもそれはある種遊びじゃないですか。でもそれを正式なプログラムに入れる、その後のプログラムが活気づくわけ。」 久持「楽しいことをやって」 鶴「そこで仲良くなるしね。」 久持「今はそういうの、あまりやらないですよね。」 鶴「やりにくくなったね。」 久持「『事故があったらどうするんだ』って。」 鶴「学生もそういう遊びはあんまり喜ばなくなったよね。私はそんな気がする。学生気質として。」 久持「あとは、八巻先生の仕事ぶりについてはいかがですか?」 鶴「私は一緒に仕事をしたわけではないの。結局、催眠の技法研修会を何回かした以外は、一緒に研究したとか、一緒に本書いたってのはないので、だから八巻先生がどういう仕事をしたかなとか、どんな本を書いたかなっていうのを概略さーっと見させてもらったときに、先ほども話したけど、アドラー精神というかね、それが自分の思想とぴったり合ったんだなって。幸せですよね。自分の在り方とピタッと一致する思想を持って仕事ができるというのは、それは熱も入ると思いますよ。」 久持「そういうのってなかなか出会えない。いろんなしがらみがあったりとか、最初にどのゼミに入るかとか、そういうことによっても変わってきてそうですよね。意外と簡単ではないですよね。」 鶴「そうそう。だから柴田先生のところは精神分析一本だったと思うから。彼、最初の臨床があそこだったと思うから、だからあそこで精神分析に触れて、雰囲気の中でスタートは育ったのだと思うけれど。その後彼は分析から離れているものね。」 久持「そうですね。柴田クリニック時代は、八巻先生の人生の中でも特殊な、マイナスだけではない時間だったと思います。」 鶴「それはそうでしょう。あそこ(柴田クリニック)は独特の雰囲気だったからね。」 久持「辛かったというのは本にも書いてるし、私も何度も聞きましたし。私は八巻先生の人生の中ではバネになって、収縮してこう弾むじゃないですか。こういう時期だったのかなっていう。」 鶴「でもね。若い頃精神分析勉強してたんだというのは、一つの「こういう考え方があるんだな」と、「そういう理論と技法の中でセラピーしたら人はこんなふうに変わっていくんだな」っていうのをそれが体験できたのはとても良かったんじゃないでしょうかね。それがあったからこその、それとは真反対の方に走ったんだね。その方が自分に合ってたんだということね。」 久持「自分の持ち味と思想とがぴったりくるというか。」 鶴「非常に単純に言ってしまうと好き嫌いっていうのがあったんでしょうね。」 鶴「オープンダイアローグに彼が一早くから関心を持たれたのも、アドラー心理学に傾倒したってこととも繋がるけど、先ほど話したように、結局、フラットな関係、フラットな関係が好きだし、大事だし、それが心理臨床でも重要、っていうのが心の根底にあったような気がしますね。主体性とか主体的を強調した本を書かれているけど、それはご自分の人柄そのものだなって(笑)。」 久持「初期の論文に、「セラピストが主体的になること」みたいな、クライアントの主体性はもちろんのことながら、セラピストの主体性も大事なんだみたいなことを書かれた論文もありましたので、それこそ柴田クリニックを出た後ぐらいに書かれた論文だったから、ご自身の主体性が開いたところのタイミングで出た論文でもあったのかなと思いますね。」 鶴「人の一生ってそういう意味では興味深いね。いろんな個々での経験が反動的にここでつながっていってるってね。そしてここで出会ったものが一生涯のテーマになる、っていうような。でもまあ、早くはお亡くなりになったけど、私から見たら素晴らしい人生だったんじゃないかなと思います。」 久持「何というか。亡くなった後も、いろんな人とお話ししていたんですけど「最後まで走り続けていた」と話していて。」 鶴「それがまたアドラーとも似てますね。仕事が大好きみたいなね。 八巻秀バーチャル記念館の、どういう仕事を請け負っているかっていうのをずらっとありますもんね。びっくりしますよ。」 久持「意外と、と言ったら失礼ですが、マメに記録を残してるんですね。」 鶴「なるほど。」 久持「全部書いてあるんです。だからあの、亡くなったのもご自身、亡くなるつもりは1mmもなかったと言いますか、そういう亡くなり方をしたわけですけど、その私、ご家族から八巻先生のパソコンを預かって見てみたら、もうびっしり。なんか八巻先生っておおらかっていうか、まあ、おおおらかであり、あまり細かいこと気にしないし。「まあ要点さえ押さえればいいよ」って感じだったので、あんまりそんな細かくキチキチってされているイメージないけれど。結構スケジュールとか、すごく細かく。今までの履歴とか、講演の記録も全部とっているんですね。」 鶴「ええ、すごいね」 久持「ありがたいことに、それがあったので、色々なぞって引き出して、バーチャル記念館の方にもアップできたりっていうのはありました。」 鶴「バーチャル記念館に載ってるいろんな写真が素敵ね。どれもね、本当に。お人柄を示している写真で魅力的な・・・本当に。」 久持「その中の結構な割合が食事中の写真だと思います。(笑)」 鶴「なるほどね。」 鶴「あなたのルポ、秋田の天ぷら店「みかわ」さんのエピソードもなんかこう・・・胸が締め付け・・・締め付けられるって程ではないけど、いいお話ですよね。あの店主さんと奥様がね、八巻先生のことをよくよく覚えててね、」 久持「うん、そうなんですよ。」 鶴「ああいう人生の楽しみ方をされてたんだな~って思って・・・」 久持「お会計の時だけはびっくりしました(笑)。」 鶴「本当よね、尋常じゃないお会計(笑)。美食家だったのよね。」 久持「もう一軒別の店を書いている途中のお店があります。先々週ぐらいに、行ってきまして。レポート書きますので」 鶴「楽しみにしてます。」 久持「お話しそびれたことはありますか?」 鶴「いえ、もうほとんどお話ししたと思います。」 久持「最初から一気に盛り上がってしまって。」 鶴「本当はもっと長く秋田大学にいて欲しかったけど出身校の駒澤大学に移られたからこそね、その後のご活躍があったんだと思いますね。本当に精力的に仕事をされていたんだなと思いました。まあ、言っても仕方ないけど、催眠医学心理学会の大会長を引き受けられてね。それが、実現しないまま。ご本人も悔しかったと思いますね。」 久持「開催の2ヶ月前に…」 鶴「そうそう。で、(亡くなる)一ヶ月ちょっと前ぐらいに、心理臨床学会の総会、代議員会ってのがあって、八巻先生もそれに来られていて、休憩時間の時に私のところに来られて、合同大会でシンポジストを頼まれていて、それで八巻先生が来て、「あれをどうぞよろしくお願いします」って挨拶されて、そこでちょっとしばらく色んなことを話したんですね。その時も本当もう、なんかもうそこの学会を成功させたいっていうね。もうそういう思いでいっぱいでしたね。」 久持「それと別のアドラー系の学会も合同で、それも大会長だったんです。両方残していかれてなかなか大変だったみたいなんですけど。まあでも本人が一番・・・」 鶴「ね、悔しかっただろうね。」 久持「それは本当に悔しかったでしょうね。」 久持「はい。では本当にありがとうございました。」 鶴「また機会があったら。」 久持「またぜひお話をお聞かせください。ありがとうございました。」
田嶌誠一先生インタビュー
インタビュアー:久持 修(やまき心理臨床オフィス代表)
撮影:2025年5月
田嶌誠一先生インタビュー 全文
久持「八巻先生との出会いというところから教えていただければと思いますけど。」 田嶌「その前に、こういう機会をいただいて、とてもありがたいです。 というのはね、人が亡くなるとか、それから別れるとかもそうだけど、特に亡くなられた後っていうのは、関係を問い直すとか、関係を噛みしめるだとか、そういうことがあるじゃない?なのでそういうことが私の中でも起こってて、そういう時間、そういう意味でもね、今日またいろんなお話ができることはありがたいと思って。」 「それからもう一つはね、久持さんに、ちょっと八巻さんに色々聞いておけば良かったんだけど、あんまり根掘り葉掘り聞いてないのよね。だから知りたいことあったなと思って、そういう意味でも久持さんがいてくれていい機会もらえると思っています。 よろしくお願いします。」 田嶌「最初の出会いっていうのは、 久持「いつぐらいなんでしょう。」 田嶌「多分ね、数字の記憶弱いんだけど、東京カウンセリングセンターだっけ、菅野さんがやっておられた。僕がはっきり覚えているのは、そこでのセミナーに何回か呼んでもらったのね。で、その時に、前日に、ちょっと前夜祭みたいにご馳走してもらったりしてその時に菅野さんと八巻さんと来られてたのね。で、その前が催眠医学心理学会とかに彼が参加してたみたいなんで、私もたまには行ってたんだけど、ただ私は学会あんまり行かない人だったんですね。心理臨床学会は行くというふうに決めてたんですけど、他のはね、大体声がかかった時とか、お役目がある時、私の師匠の成瀬 悟策先生に命令されて、行くとかね、まあ、そんな感じだったんでね。なので、お会いしたかもしれないけど、あんまり覚えてない。はっきり自覚したのは、あの菅野さんと一緒にお世話いただいた、その時に、あ、八巻さんだ、こういう人がいるんだと思ってなんかいい感じだったのよ。あの強烈な印象とかじゃなくて、別に控えめに、なんか上手に世話していただいているという感じで。それは菅野さんがメインでやっていたから、だからそういう印象だったんだけど、僕の感じでは、菅野さんはいい人見つけてきたなと、どうやって見つけてきたんだろうと思ったわけね。それが最初の印象で・・・聞いてないのよ。何か聞かれたことある?菅野さんと八巻さんの出会いというのは。」 久持「どうだったんでしょうね。東京カウンセリングセンターで働いていたって。私が八巻先生と出会ったのも、そのぐらいの時期なんですよ。どうだったんでしょう。もしかしたら、『かかわりの心理臨床』八巻先生が書かれた本の中に書いてあったかもしれません。」 田嶌「それで、なんでそういう話を出すかというとね、その体験というのは、八巻さんにはとても大きかったんじゃないかなと思うのよ。いろいろ振り返るとね、それであの菅野さんがいて、八巻さんがいた。で、その印象とダブるのが今度は八巻さんと久持さん。」 久持「あ、そうなんですね」 田嶌「そのパターンがあって、八巻さん、またいい人見つけたなと思って。」 久持「いやいや、ありがとうございます。」 田嶌「これをね、とっても思い起こすんだよね、そういうのをね。だから、あの八巻さんにとっても、あそこでの体験は結構大きかったんじゃないかなというふうに思いました。で、その時はまあそれで関心したの、僕、それをその時にあの壺イメージ療法のセミナーですね、それをやるんだけど、その時ね、あのデモンストレーションっていうか、まあやってみせるわけね、どなたか希望者を出てもらって。それでこう一対一でこうやる、あるいは一対二ぐらいでやる時もあるけど、それから集団でやる時もあるんだけど、まあ、あの時は大体一対一をやるんですね。で、それまあ彼見てるわけね、八巻さんが。で、僕はつい、そのあちこち話が飛ぶけど、退職記念の時に彼に来てもらってその退職記念で喋っていただいた何人かの一人なんだけど、その時に初めて知ったんだけど、覚えてるのね、よく。その時のことを、それでね、一番びっくりしたのはね、私がデモンストレーションするときに最初の一言なんて言ったかっていうのを覚えてるわけ。」 久持「ええ~!なんておっしゃったんでしょう?」 田嶌「あのね、まあ、それは割といつも言うんだけども、その相手の人に、「このぐらいの距離でいいですか」って聞いたっていうわけ。それで、そういうふうに聞いたんだっていうのね。で、それが非常に印象に残ったらしくてつまり相手の主体性を尊重しながら、こう一緒にやってるっていう感じがあったというようなことを言ってましたね。でも、あんな昔のことよく覚えてるなっていうふうに思いました。」 久持「なるほど。」 田嶌「だからその時の、私のあの時に会った時の印象と、多分ダブってる思うけども、学び上手なんだと思うね。だから、いろんな機会とか、いろんな関係とか、いろんな状況とかを、割となんかこう、活かす人っていうかな、上手に活かす人っていう感じがしましたね。学び上手。覚えてるのはね、八巻さんがこう、上手だからじゃないかな。聞き上手なんで、飲むとさ、私がべらべら喋ってて、で、あんまりなんか、彼が聞き上手だったせいか彼が何言ったか、自分が何喋ったかって話が多いんだけど、ただね、一つ覚えているのは、印象に残っているのは、私が臨床で、若い頃苦労した話をしたわけね。したっていうのは、私は九州大学で成瀬悟策先生のとこで、最初学んだので学ぶ先生が大変だったっていう話でね、大先生で、すごい先生ってだいたいそうなんだけど、まあ大変なんだよね。で、苦労したって話とそれとあのもう一つは臨床家としても若い臨床家としても出来が良くなかった。つまり、もうなかなかうまくいかなかったわけね。それであの先輩には増井武士さんとか、藤原勝紀さんとか、光り輝く大先輩がいて、それからこう、同じ同級の仲間もみんなそれなりにうまくいってるのに、私はもう本当になかなかうまくいかなかった。それで苦労したって話を当時はですね、そういう話をしたら、彼も同じように、柴田出先生のところで苦労したっていう話をねそういう話を何度も聞いたことがあります。それで、それはね、話がとっても合ったのよ。似たようなところをくぐってる。臨床家って、割合こう、最初からすっと臨床の世界に入っていって、それぐらいの成果を割合上げれてる、あるいは、まあ目覚ましい「ええっ!」と思うような成果を上げるような人もいる。で、そういう中で、あの非常に苦い経験をしてきたんですね。で、そういうことで話があって、で、あの苦労したって話と、それからその時のこう、まあそこからどう這い上がったかみたいなところがね、とても共通点があったなっていうふうに思いましたね。で、あの柴田出先生っていうのは、やっぱり催眠のイメージ分析療法だったかな。やってらして、それであの当時の、つまり成瀬先生とも年代がこう近いわけですね。そういう年代の方たちっていうのは、まあまあどうかな、あの、もう本当に親切にというか、指導も行き届いてるけども、以前はそうじゃなくて、あの世代の、あの人たちの共通した点っていうか、かなり共通したことだと思うんですがね、割とこう、教え子をいじめる、いじめるじゃないな、そうじゃなくて、苦しめるっていうかな、つまり、なんかこういう臨床とか学問の世界っていうのは、こう苦しんで苦しんで、そこから這い上がるんだみたいなね、つまり、そうするのが、その人たちが伸びるのにいいんだっていうような、そういうこうはっきりとした、あるいは漠然とした信念を持っている方が多かったような。だから、もうケース検討会とか普段の指導でも、まあ厳しいわけね。まあ、ほとんど罵倒されるような感じですから。だからもうあのサポーティブなんてことはもう本当ありえなくて、もちろん一部の、ものすごく臨床的センスがあって成果を上げている人たちについては、もちろんちゃんと評価するとしても、あの普通の人たちはもうだいたい罵倒されて、ボロクソ言われて、なんかあれば逆転移だとか、それから、お前の内省が足りないだとか、それとか、もう私なんか、成瀬先生に随分言われたのは、「お前の性格が治れば、この患者さんは治る」まあ、そういう、まあ言ってみればね、まあ、当たってなくはないかもしれないんだけど、乱暴だよね、というか、そんなこと今言われてもみたいなね。そんなことがあって、で、大変苦しんでで、そういう話をしたら、八巻さんはやっぱり柴田先生のところで苦労したみたいな話と共通してたわけね。そこからが偉かったのは、やっぱり、柴田クリニックのスタッフの人たち、受付の人とか、そういう人からいろいろ教わったとか、そういういろんな人から学ぶっていうことを学んだみたいだと。」 久持「そうですね。そういうこともありました。」 田嶌「それはやっぱり、いや、すごいなと思いました。私もそういうことがなかったわけじゃないけど、むしろ、仲間っていうのかな、仲間から学ぶ。師匠から学ぶというよりも、そんなことを心がけたし、それで、八巻さんが学び上手で、僕の印象、やっぱり八巻さんについて言えば、我が道を行ってる人だと。僕、我が道行ってる人って好きなのよね。それで我が道を行ってるっていうのは、特徴はいくつかあって、一つは、活動そのものが、久持さんとかを、ちゃんと見出してはね、一緒に相談室をやってる。で、そういうことっていうのは、非常に今どうか分かんないけど、今でも珍しいんじゃないかな。大学教員をしながら、相談室をやってるという、自分でつくって。もちろん大学の相談室をやってる人はいる。」 久持「そうですね。」 田嶌「民間でちゃんと作ってやってる。で、そういう生き方そのものも独特だし、独自だし。で、それやっぱりあの菅野さんのところでの経験が生きたんじゃないかなと思うんですね。」 久持「イメージがあったんでしょうね、開業の。」 田嶌「だけど、菅野さんの場合は、もうそういう専属でやってましたからね。それでこう、非常に我が道を行ってる感じがあって、それから臨床方向見据えるにしても、あの割と臨床家って、あの、あるところに操を立ててやね、若き日に指導してもらった大先生とその枠からはあんまり出ないっていう人とか、それから、あるいはその反対に、なんかこう、次から次とこう、ショッピングしてるみたいに、いろんなこう、新しいのが入ってると飛びついていってっていうね。で、それはそれであのいいんだけど、彼の場合はやっぱりその芯があって、あれやこれやから学んでこられたっていうかなそんな感じがあっていわゆるこう信頼して見てられるような、こう道を辿っていたっていう感じがするんですよ。」 久持「なんか八巻先生からよく田嶌先生のこと本当よく聞いてたんですけど、今の話からちょっと思い出したことがあって、やっぱり田嶌先生は、その内界の壺イメージ療法っていうところから始まって、ネットワーク活用型、それからシステム形成みたいなところで、やってるところは違うんだけれども、その安全っていうテーマで共通してるんだって田嶌先生おっしゃっていてやっぱり八巻先生、それがすごいって。」 田嶌「それ嬉しいな。」 久持「やっぱその安全っていうところに徹底的にこだわり通したっていう、信念みたいなものは、やっぱり田嶌先生はすごいなって。」 田嶌「うん、ありがたいな。学び方がね、ちょっとこう、さっき最初にちょっと言ったけど、やっぱり人が亡くなるっていうのはさ、なんかこう非常に八巻さんが亡くなられて、非常に寂しくなってて、そうするとやっぱりこう、いろいろ思い出したり、それから問い直したり、味わい直したりそうするとね、これ私、最近やっぱり中井先生とか成瀬先生が亡くなられたんで、関係を問い直すとか、関係を改めて噛み締めるとかいうことがあって、八巻さんともそういうとこありましてね。まだ彼が生きてて時々会ってる時にはさ、そんなに意識してなかったんだけど、やっぱりいろいろ共通点があったなと思うんですよで、こう、ちょっと彼が書いたの読んでみたりするとね、ああ、こうだったのかっていうね。本当、私が今言ったように、あの内面探求型から、ネットワーク、システム形成という、こういう流れでやってきたけども、あれも全部、状況との出会いよね。つまりこう、自分がやってて、自然にというよりも、いろんな難しいケースに出くわしたりとか、それから自分が職場を移ったりとか、いろんな状況との出会いがあって、それでまあ、その時にそれをまあ、どう活かすかっていうことでそうなってくるのね。で、あの八巻さんの場合もおそらくそうそうだったと思うのね。柴田先生のところで分析系のイメージ療法をやってたんだね。そうするとそこからね、それを活かしつつも、次に展開するっていうの、結構大変なんですよ、多分。っていうのは、私が催眠療法だとか催眠イメージだとかやってて、あの、そこから抜けるっていうか、そこからまたレパートリーを広げていくっていうのかなそういう時にやっぱりとても苦労したんで。それを上手にやったなっていうのはねで、おそらくそれは東京カウンセリングセンターでいろんな人を呼ぶじゃないですか。多分ね、そこを私のにしても彼よく見てたなと思うんですよ。そうすると、ほかの先生たちについてもあの頃、菅野さんが呼んでたからとても、まあ、すごい人っていうか、面白い人をやってたんだと思うんですね。あの、いわゆる大先生とかじゃなくてね、こいつら面白いね、すごいねっていうのをね、菅野さんの偉いところは、これは彼の良さだと思うな、そういうとき、だいたい大先生を呼びたがるもんだと思う奉るような人を既に有名になってる。そうじゃなくって、年代の近い人たちを結構呼んでたような。プログラムを見るとね、そこはやっぱり菅野さんの、なんていうかな、素敵なところだと思うのね。で、私もその時にちょっと呼んでもらったりしたもんだから、普通だともっと違う人を呼べたと。で、そういう人を呼んでて、そのお世話をずっと彼がしてたわけだから、そこから学んだっていうね。そういうことがとっても、なんか、それ以前の、催眠のイメージ療法っていう、そういうものと、両方が生きてるっていうかな僕はそこも素敵なとこだと思います。あれを否定して次へ行ってるって感じじゃないよね。八巻さんの場合で、特になんか、ああいう時には前のばっさり捨てて、次へっていう。」 久持「すごい苦しい体験だったでしょうから、切り捨てたくもなるっていう。」 田嶌「でいや、私まあ転んではただ起きないというのを信条にしてるもんだから、痛い目に遭うとか、なんとかそれを生かすっていうことを考えてきたもんだから、多分彼もそういう苦い経験を生かしたんじゃないかなと思うんですよね。」 久持「先ほど、先生のその三つのアプローチが変わっていって変遷していったんだけれども、現場の多分、先生の場合は、切実なニーズを先生が肌で感じて、その必要性に迫られて、ある種、現場のニーズに突き動かされるような形でアプローチの仕方を変えていかざるを得なかった。というふうに理解しているんですけども。なんか八巻先生も、そういうのがもしかしたら・・・」 田嶌「だから私もそういう意味では、イメージ療法を否定して次に行くっていうんじゃなくて、だからネットワークって言ってるけど、ネットワークも個人心理療法も、そのネットワークの一つだっていう位置づけになってるんだね。そんな感じでやってきたっていうことなんですけどね。」 久持「八巻先生が開業したのも、秋田大の教員を辞めざるを得なかったんですよね。で、東京に来て。だから八巻先生からしたらすごい不本意。秋田では大学の先生ですし、もう地域ではやっぱり先生の引っ張りだこというか、やりがいすごいあったと思うんですよね。それを全部捨てて、東京に来て、そしてその東京で次の仕事を決めずにこっち来ちゃったんですよ。」 田嶌「すごいね~」 久持「それで、そこから就活して、八巻先生って結構楽天家っていうか、「なんとかなるべ」みたいな精神がやっぱりあってで、そこから就活したんですけど、ことごとく落ちたんですって。何件目かで落ちた時に、その親切な採用の方が教えてくれたんですって。「八巻先生、先生ぐらいのキャリアのある方は、もううちでは雇えないですよ」と。だからもうちょっと若手とかフレッシュな人だったらいいんだけれども、恐れ多すぎて採用できないみたいなことを言われて、あ、そうなんだって思って、じゃあどうしようってなった時に、多分そこでなんかこう、開業みたいなのが、元々こうイメージがあってじゃあ開業するかって言って。」 田嶌「あ、そういうこと?僕はね、そこ分かってなくてじゃあ開業してから駒澤(大学)に就職された。僕は、駒澤(大学)に就職して、それから開業されたんだって思ってた。その傍らね。ああ、それはすごいね、それは。」 久持「ご家族からもうちょっとこう、不安定だったので反対をされてたみたいなんですけど、いやもう就職がないからしょうがないでしょうっていうことで、押し通したみたいなんですけど、多分東京カウンセリングセンターのイメージもあったのかまあ、柴田クリニックもちろんそう、ある種の開業ですから、自分で開業っていうのはあったんだと思うんですけど。もうなんか追い込まれた末の開業みたいな。」 田嶌「いや、すごいなあ~」 久持「私もその2、3年後にちょっとご縁があって、その部分はちょっと省略しますけど、長くなっちゃうんで、(やまきオフィスに)入れていただいたんですね。」 田嶌「そこが僕はものすごく知りたかったところで、八巻さんはどうやってあなたと巡り会ったんだろうか?」 久持「最初は予備校の講師だったんですよ、八巻先生が。それこそ東京カウンセリングセンターにいた時に、心理士だけでは食っていけないっていうので、八巻先生が予備校の先生をしてたんですよね。」 田嶌「あ、そうなんだ~」 久持「で、私はあの大学受験浪人をしておりまして、はい、そこで数学を教えていただいてたっていう。」 田嶌「ああ、もうそこからの縁だったね。」 久持「で、私が大学入った時に、八巻先生も現場で仕事もされていて、ちょっとご縁が名刺をいただいたので、そのご縁があって、ちょっと連絡を取って飲みに連れてってもらったり。」 田嶌「それで、その八巻さんが、東京カウンセリングセンターから、今度は秋田に行ったでしょ?で、その後、あなたが秋田大学だっけ?関係あるの?」 久持「もちろん八巻先生のゼミに入りたくて。」 田嶌「ああ~そうなんだ~。」 久持「そこで八巻ゼミに入ることができて、で、卒業して、秋田で私、就職していたら、急に「東京帰るわ」って(笑)」 田嶌「(笑)それはちょっとひどいね」 久持「びっくりしましたよ。え~~!?みたいな。」 田嶌「(八巻さんがあっちに、当分いるもんだと思って行ってたわけでしょ?」 久持「はい。」 田嶌「突然本家がなくなるようなもんですね。」 久持「もちろん私は就職があったんで、そのまま続けてはいたんですけど、結局私もこう転々と、そこから秋田、福島行ってで、東京に戻ってくるチャンスがあったんで、そこで東京に戻ってきて。」 田嶌「それはなんかちょっと素敵な出会いだったね。」 久持「そうですね。だから本当に八巻先生なくしては、今日こんなことは絶対なかったと思います。」 田嶌「よく行ったね、秋田までね。結局、大学を卒業してからでしょ?大学院の方に行った?よく行ったな~。」 久持「ちょっと勇気が要りましたけど八巻先生がいるならと思って。」 田嶌「まあ、秋田だからね、ちょっと遠いからね。」 久持「そうなんですよ。まあ、でも結果的には良かったなと思ってますけどね。」 田嶌「それで、そのもう一つ面白かったのはね、八巻さんは、どうも数学の先生、いい先生に出会ったみたいね。」 久持「あ、そうなんですか?」 田嶌「それで、その後、そんなイメージがあって。で、僕はね、不思議だったので、僕の本の書評を書いてくれた時に、私が浪人生の時に、小西甚一先生って私が浪人生の時に、小西甚一先生って国文の先生がいて、その先生の本に導かれて、学問の世界に行こうとしちゃったわけよね。なんでそのことをね、ちらっと書いてるだけなんだけど、それを書評の中にね、ハイライトしてくれたの。こんなとこまで驚いたのは、古文研究方法を読んでんのよ。小西甚一先生っていうのは、国文学で有名な人なんだけど受験参考書を書いてたのね。私は、とにかく大学ってどういうところか全く知らない家庭で育ったんで、もうとにかくどんな学部があるかも知らないわけよ。で、唯一いろいろ勉強している中で出会ったのが、古文研究法あ、この先生がいいな、いや、この先生のとこ行こうと思ったわけ。だけど、ちょっといろいろ入試がなくなっちゃって東大が入試中止になったの知ってる?」 久持「ああ、いや、なんかあの田嶌先生の話を過去に聞いた時に、なんかそのようなことを。」 田嶌「それで、その小西甚一先生は東京教育大ってところにおられたわけ。受験しようと思って、もうそこに(願書)出してたら、突然入試が中止になったんですよ。で、東大が入試中止なんですよ、その年それが本当に悔しいことに東大が入試中止してしまったのは、割合年代が上の人たちはみんな知ってるわけ。同じ年についでに東京教育大も(入試が)なかったったいうのはね、誰も思ってないよね。そこでやっぱりね、ひどい目に遭ったのがね誰も覚えてないっていうのは、ちょっと釈然としない思いがするわけね。それで話が飛んじゃったけど、そういうことをちらっと書いてたら、わざわざ彼はそれを読んだ後にその古文研究法っていうのは、これが面白いのよなんと今ね、ちくま学芸文庫にはいってるの。で、受験参考書ですよ。いわゆる受験生が勉強するために作られた本が学術文庫です。学芸文庫だったかな。いやだもんで、入手しやすいわけですね。何が言いたいかっていうと、だもんで そういうことはね、読んでるんですよ。」 久持「へ~」 田嶌「そしたら小西甚一先生が、こう改定していったっていうね。ずっとこう改訂に改訂を重ねてたので、そういうことをあの、私の本を読んだだけではわかんないことまで書いてあるわけで、びっくりしちゃってそしてそしたらね、私も彼について理解が深まったのは、後でなんか見たらなんか、予備校の時の数学の先生がとても良かったそうですね。」 久持「あ、そうですね、はい。」 田嶌「で、そういう経験があった。だから、つまり、もうあの自分の専門領域にたどり着く前の体験もね、なんかちょっとこう、共通したところがあったなっていうね、そういうふうに思いました。」 久持「確かに八巻先生のあの単著で、『かかわりの心理臨床』中にも、その数学の先生との出会い。あれが一番最初に、なんかこう、自分の中で、熱が入った最初のきっかけだった。」 田嶌「多分ね、そういうことがあったんだと思う。でないと、私が古文研究法って書いてあってね、そういうところに関心を持ってみるってことは普通ないと思うんですよ。ああ、なんかそういうのも共通してたなと思ってね。いろんなところで共通したところがあったなと。」 久持「いやもう本当、私、八巻先生と一緒にいましたけど、とにかく田嶌先生のことは、もうなんて言ったらいいかな、『ファンだ、私はファンだ。』」 田嶌「いやいや、それはありがたいことです。もう、私は業界の中で、あんまり人のせんことをしてきたんで、あの、まあ、どちらかというと浮いてる方なんで、あの、ただ、その一方で、あのマニアックに支持してくれる人が少数ながらいたのでね、とてもありがたかったんだけど、その、代表的なお一人だったと思っています、八巻さんって。」 久持「ストーカーって自分で言ってましたね。」 田嶌「だからすごくよく私の本読んでてくれて、まあありがたいことです。何周年かなんかで呼んでいただいたでしょう。それからむしろだから私の思い出だったら、八巻さんにお世話になったなっていう経験の方が体験的には多いんですね、呼んでもらった。それから例えば、やまき心理臨床オフィスの何周年かに呼んでもらったでしょ。それからブリーフの学会の時にも声かけてもらったでしょ、 久持「駒沢大会の大会記念講演。」 田嶌「そうそう、そういうふうに呼んでもらったりそういう、こう世話になったっていう体験の方が多くて、それからまあ、そのご馳走になったとかいう体験があって、なんかな、ちょっとお世話になったなっていう感じの方が多くてで、そういう意味ではありがたいなと思って。」 久持「八巻先生もそうですよ、その駒沢大会、ブリーフ学会の駒沢大会で、とにかくテーマは配慮と工夫ってことですね。そのテーマ自体がやっぱり田嶌先生とやっぱり通ずるところがあったので、誰を基調講演お願いするかと即、田嶌先生。」 田嶌「ありがたいことでした。普通、私はそういうことがなかなかない人だからね 本当にありがたかったしいい思い出ですよ。」 田嶌「彼グルメだったしね。」 久持「そうですね。そこも共通ですか?」 田嶌「共通してると思うね。多分。それで、好みはかなり近いものがあったと思う。」 久持「あ、そうなんですね。」 田嶌「だからその時も味しい寿司屋があるので、そこに行って連れてっていただいてね、一緒に。で、その時にね、今でも名前覚えてるけど、辰鮨。鮨辰だったか。」 田嶌「いや、そんないいよって最初言ったんだけど、いやいや、安いとこですからって言うから。」 久持「そんなことはないと思います。」 田嶌「いや、私はね、素直だからね、安いって言われて、ああ、そうか、安いんだと思ってたんだけどそれでね、遠見書房の山内さん、に会った時に、安いって言ってたよって言って、そしたら山内さんから諭されましてね、「田嶌先生、それはですね、あの銀座のすきやばし次郎とか、そういうお店に比べれば安いという意味であって、決してあの、普通に安いっていう意味じゃないんですよ」って言われてねいや、それはいや、おかしいなと思ったけど、やっぱりそうかってというのはね、とっても素晴らしい、あそこの大将もまあ、いわば我が道を行ってる料理人でねああいう人、好きなんですよね~素敵だったから二切れ出す。で、一切れはね、あの、熟成したの、一切れはフレッシュなの鯖を〆たやつじゃないですか。それを食べ比べさせてくれるってで、そうすると際立って特徴がね、お互いの特徴がわかるっていうんで、まあそれは今でもああ、美味しかったあの、あの食べ方いいよなと思ってたけど。」 「私は催眠医学心理学会には、たまに行ってたんですね。あの、つまり行けって言われたり、それからなんか役があって呼ばれたりすると行ってました。そんなに行かないんだけど、たまたま一緒になって、一緒に飲みに行った時に、あの、まあ議論になるわけね、あの人たち。そうするとね、あの、彼はね、こう言うとね、わっと他の連中が食いついてくるわけでね、議論になるのだからちょっとしたこう、ええ、「嵐を呼ぶ男」でしたよ。」 久持「だいぶ叩かれてたんじゃないですか。」 田嶌「うん。それで一生懸命なんか言い返して、」 久持「はい、目に浮かびます。」 田嶌「やっぱりね、自分のものを考えていく人っていうのはああいう目に遭いやすいのよ、そう思って私は見てたけども。それとね、あの、とても私が印象に残っているのは、ハッタリをかまさない人。ハッタリをかまさないもんだから、率直にいろいろ話すると、叩かれることにもなるけども、率直に議論できる人だったっていうのが私の印象ですね。臨床やる人って、すごく構えて、かっこつけたりって人、結構いるから。あの、なんだろうな、そこがね、とっても僕は好感を持ってるんですよ。で、学び上手だってことと、ハッタリかまさない。で、やっぱり状況を生かしながらやっぱり自分のものを作っていった人だなっていうのはね。61歳だからね、亡くなられたってことは、今からいっぱい書きたいものがあったと思うんですよ。」 「で、私の退職記念の時に、まあ、普通は退職、最終講義っていうのをやって終わるんだけど、なんかもうちょっとやりたいなと思って、それで思いついたのが、あの、何人かに喋ってもらって、私が喋るだけじゃなくて、で、その時にお願いしたのが、松木さんですねあの、鹿児島大学の。それからあと、あの八巻さんと、それから愛知県の児童相談所の所長をやってた先生、この3人に喋ってもらって、それからあと、京都大学の杉原さん。あの、それから當眞さんが一応、指定討論ってことで、5人に登場してもらえたんですね。で、その時、八巻さんが喋ってくれて。」 久持「なるほど、プログラム。」 田嶌「そうそうそう、プログラムですね。えっと、それで松木さんがこれやってで、その次にえっと、八巻さんが・・・」 久持「学校臨床現場のニーズを汲み取り、引き出し、応える心理臨床とは?」 田嶌「これは私の退職記念の本に書いてくれてるんだけど、あの、それでその時にね、話がとても良かったのよ。論文に一応なってるんだけど、でもね、やっぱりちょっと違うの 。あ、その時の会場で話されたことと。うん、やっぱりその時のね、パワーポイントが探した時に見つからなくて。」 久持「探します。」 田嶌「それはね、とてもいいのよ。何か先生が覚えてるものがあるんですか。覚えてるのがあるんだけど、その時にまずあの、私が最初に壺イメージの体験があれの時に何言ったかっていうのがまず出てきてで、それからいろいろ展開してくれたんだけど、あの時はやっぱり論文にするときには、やっぱりちょっと控えめにしてあるのね。控えめっていうか、あの、多分まあ、私の退職記念だからっていうことだろうけど、あの、もっと伸びやかにつまり八巻色の出た話なわけ。うん、それで最初がこうやってですね、最後がね、私のキャッチコピーを話してくれたんだけど、「こころはアマチュア、腕はプロ」とかね。で、随所で、その、そういうのを行き来ながら、自分なりの見方をちょこっと添えてくれるわけ。ところがね、あの論文の方はちょっとそこはそぎ落として。やっぱりそういうふうにあえてされたんじゃないかと。で、例えば最後の「こころはアマチュア、腕はプロ。補おう、腕の不足は体力で」そこにこう吹き出しを作って、「体力が落ちてるので、(勇気力)」って書いてあるのね。」 久持「ああ、言いそうです。」 田嶌「で、こういうふうに八巻色をポンっとこう添えていくわけね。で、そこのところはね、とてもいいところなんだけど、あの、多分それなんか、田嶌の退職記念だからっていうんで話はそういう話でやってるんだけどちょっとそういう落としがあるのね。で、一応探したんだよね。そしたら、写真でもないかなと思ってそしたら全部録画が残ってる。」 久持「あ、そうなんですか。」 田嶌「録画が残ってる。」 久持「もしよければぜひ。」 田嶌「ええ、あの、そんなんで録画残ってるけど。写真じゃなかったんで、今回持ってきませんでしたけど持って来れなかったんだけど、その時にいい話してくれました。やっぱり素敵なのは、私がこうやったっていうのを、あの、知りながらやっぱりあの、それが八巻さんの人となりというか、八巻さんの臨床を表すような、もうちょっとやっぱりうまく添えてね、やってましたよ。」 久持「さっき、先生おっしゃってた、学会とかで結構議論、嵐を呼ぶみたいなその大先生の言うことをそのままこう倣えばいいんだけど、こう、ちょっと自分色を出すところで、それを気に食わないっていうようなところも多分あったのかなって思いますけど、やっぱり今の話聞いてすごいなと思ったのは、田嶌先生の懐の広さっていうか。それを面白いとかっていうふうに言っていただけるっていうのは。」 田嶌「自分の頭で考える人だったよね。それ、なかなか難しいことなんだけどそれやってきた人なのかなそれでね、もう一つ共通点は共通点とちょっと違いでもあるんだけど、私はイメージ療法をやって、そのイメージをやった時にもう催眠とか催眠学会からちょっとこう離れていったんでね、うん、あえて離れたってわけでもなく、ええ、呼ばれたら行くっていうぐらいの関係なんだけど。で、八巻さんの場合はそうじゃなくて、発想はとても似てるんですよ、あのイメージ療法についての理解もね、彼が間主体性だっていうねあれはとても素敵だと思うし、あの内閉イメージなんとかいう、あのそういう開示イメージか、とてもそれ、私もよく分かるしで、まあ彼の、やっぱり、私と違うのは、そういう共通点がありながら、催眠の中でそれをやっていったというかな。うん、あの催眠療法という枠の中、留まりつつやってた。これは松木さんもそうですけどね。あの、私はもうあの、何て言うかなそれよりも、もう自分のやりたいことをやっていこうっていう感じなんだけど、あの、そこのところは違ったっていうことがありますね。それもやっぱり独自だったと思う。やっぱり自分の頭で考える人だったな。」 「グルメだったなって話はしましたけどね。もう一つ覚えてるのは、蕎麦懐石みたいなところ。」 久持「無庵。立川の。」 田嶌「あそこも美味しかったなっていう話です。一度ご馳走してあげたかったなと思ってるんです。逆に。」 久持「そうですね、なんか先生の好みの店に、八巻先生も行きたかったでしょうね。」 田嶌「だから僕がご案内するとしたら、あの東京で一軒、怪しい店があるんだけどええ、これも思いっきり怪しい店でええ、あの、まあ、ちょっと普通じゃない。」 久持「普通じゃない」 田嶌「そうですね、それはそれこそ我が道を行ってるというか、我が道を行き過ぎてるようところで、あの、そこか、まあ、博多ならまあ、ちょっと5.6軒くらいあるけど、まあそういうね、まあ、なんかの時は、久持さんが八巻さんの代わりに。」 久持「形見のネクタイを持ってますんで、それをしめて。」 田嶌「そういうのがいいよね。やっぱりね、この関係をこうまた振り返ることができて、うん、僕はもう本当、中井先生や八巻先生もそうだけど、まあ、亡くなられた後にいろいろ思い出したりね。またちょっと手紙読み返したりとか、なんかするとね、あの、ああ、理解が深まるのね。だからあの、今回の八巻さんのことも、いい機会もらったっていうのは、やっぱりこう理解が深まるっていうね、気がしてて、あ、八巻さんこうだったんだっていう、あ、この辺は私と似てるじゃないかとかね。なんかそういうことをいろいろ、あの、考える機会、あの、僕は時々言うんだけど、あの、別れることでつながるっていうかね別れるって、なんか終わりみたいに思っちゃうけどでもこれはあの別れる、あの、生きてるとあの、生きてた方がいいんだけどさ、うん、だけど、あのこう、別れがあったからこそ、もうなんか噛み締めざるを得ないというかな。そういうものがあって、で、その後別れることでつながるっていうかな、より深くつながるとか、改めてつながるとか、そういうことがあるんだっていうのを、なんかあの、ここんとこ、中井先生だったり、成瀬先生だったり、八巻先生だったりちょっとこう、噛みしめてますね。良い機会をいただいたというふうに思います。」 久持「そうやって、いろいろ噛み締めていただいた話を、田嶌先生に噛み締めていただいたっていうね話を本当は、八巻先生に届けたかったなっていう気持ちがありますけれども。」 田嶌「ここでまた私たちもね、また改めて、つながりがね、あの、今までもつながりがあるわけだけども、ちょっとまたね、形が加わったっていうか、そういうところで、まあ八巻さんの素敵な関係をね、残してくれたというふうに思いますが。」 久持「八巻先生が亡くなったからこその、今日のこのつながりでもありますよね。はい、ありがとうございました。」